ゆ邙道後温泉2050ビジョンDOGO 2050 VISION | 禁無断複製 | 2023 道後誇れるまちづくり推進協議会© さぎたにからすだにはなすすき30[写真4-4]初代道後温泉駅(道後鉄道)[図写真4-6]鷺谷墓地[写真4-8]往時の松枝町遊郭(中央奥に宝厳寺山門が見える)[写真4-5]明治27年4月改築時の道後温泉本館[写真4-7]八幡馬場(伊佐爾波神社参道)と花月亭(右側)[写真4-9]宝厳寺山門今日ハ日曜なり天気は快晴なり病気ハ軽快なり 遊志勃然 漱石と共に道後に遊ぶ 三層楼中天に聳えて来浴の旅人ひきもきらず−② 道後温泉楼上眺望 柿の木にとりまかれたる温泉哉道後温泉本館は、明治27年4月改築、現在の三層楼となった。子規と漱石が散策した頃の道後は、道後鉄道の開業と新しい本館の落成が重なり、入浴客も増加していたものと思われる。とにかく二人は、温泉に入った。そして三層楼に上がり、眺望したようである。山本やうしろ上がりに蕎麦の花 黄檗の山門深き芭蕉哉④ 道後をふり返りて 稲の穂に温泉の町低し二百軒 しる人の墓を尋ねけるに 四五年の月日ハ北鷺谷は、道後十六谷の一つ。子規は、曾祖母・小島久の墓を尋ねたが見つけることができなかったようだ。 二人が尋ねたときには、黄檗宗の鷺谷山・大禅寺があり、鷺谷墓地はもとは大禅寺の墓地であったが、現在は松山市の共同墓地になっており、秋山好古、伊佐庭如矢など、著名人の墓が多い。引き返して鴉渓の花月亭といへるに遊ぶ 柿の木や宮司が宿の門がまえ 日紅梢ばかりの寒さ哉 亭ところどころ渓の橋ある紅葉哉「鴉渓」は石手から道後に流れる御手洗川沿の渓流で、道後十六谷の一つ。現在の「ふなや」庭園周辺にあたる。古くから景勝地として知られ、安芸の宮島の紅葉谷になぞらえ「新紅葉」と呼ばれた。 子規と漱石は鴉渓にあった料亭「花月庵」で昼食をとったものと思われる。松枝町を過ぎて宝厳寺に謁づ ここは一遍上人御誕生の聖地とかや 古往今来当地出身の第一の豪傑なり妓廊門前の楊柳往来の人を招かで むなしく一遍上人御誕生地の古碑に しだれかゝりたるもあはれに覚えて−古塚や恋のさめたる柳散る 宝厳寺の山門に腰うちかけて 色里や十歩はなれて秋の風谷に向ふ 渓周辺 ■ 歴史文化コリドールの具体例 その2: 史実・物語で描かれた場所をたどる4-6. 重点プロジェクト(5)道後温泉歴史文化コリドール(回廊)の整備(つづき)[写真4-4][写真4-5][写真4-6][写真4-7][写真4-8・4-9]明治二十八年十月六日、子規と漱石は連れ立って愚陀仏庵を発ち、開通して間もない道後鉄道に乗って道後へ向かった。道後温泉駅で下車した二人は道後温泉の湯につかった後、鷺谷墓地、鴉渓(烏谷)を経、松枝遊郭街(その後のネオン坂、現在の上人坂)を経て宝厳寺を訪れたようである。以下、遺稿『散策集』に遺された子規の句や言葉とともにそのルートを示すが、このような形で時空を越えた没入型の追体験ができるのは道後ならではのコンテンツである。① 伊予鉄道 道後温泉駅 ③ 鷺⑤ 鴉⑥ 松枝町・宝厳寺 の山墳墓を増してつひに見あたらず−花芒墓いづれとも見定めず4.道後温泉2050ビジョンの政策体系と施策内容
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